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有野さんの暗記数学に刺激されて... ひとつ訓練をしてみようかと思う。

ここで書こうとする話は、麻雀をしない人には理解できないかも知れない。 それどころか、麻雀打ちでも理解できないかも知れない。
なぜなら、体験に Mapping できないような話が出て来る予定だから、 そしてその話は、私の体験に基づくもので、麻雀打ち となら共有できるかどうか についても怪しい。なぜ麻雀を打つのか好きなのかという 点において 多くの麻雀打ちとは違うような気がしている。

そういう話はあえて書こうとは思わなかったわけだが、書いてみることにする。 (あえて書く...これが、刺激されて ということにつながる。詳しくは ぐるぐるこめんと 暗記数学 関係を 参照)
面白い (というより 興味深い) と思われる内容になるかどうかは まったく 自信がないし、そもそも書きたいことが表現できるかどうかも自信がない。 また、途中でなげ出すかも。(頭で訓練と書いたのはこういうことである。)

導入編

まず、テーマをはっきりさせる前に... 私の麻雀への取り組み というのを 定量的に示そうと思う。

麻雀というのは、4人でやるゲームで、なにがしかのお金をかけることが多い。 仲間うちでやる 場合もあると思うが、私は それはあまり好きではない。 ( というより 最近はやった 覚えすらない)
フリー雀荘というのがあって、ひとりで行き、不特定の人と 打つ。 通常 半荘 という 1 ゲーム の単位で 店にゲーム代を支払う。
フリー雀荘でもお金をかけるものが多数で、そのランクによって、 点十(テンピン)、点五(テンゴ)というのがある。お金をかけない所もあるが、 テンゴの数十倍いやそれ以上かけるというものもあるらしい(高額なかけはもちろん違法で、私はやらない)。

私が行っているのは、テンゴのフリー雀荘。ゲーム代は、1ゲーム 350円。 1 ゲームは おおむね 45 分程度で終る。

さてこれをどれぐらいやっているか... 少なくとも月100ゲームはやっている.. らしい。時間にして、75 時間/月。多い月は この 3倍 程度。月 300ゲーム。 225 時間。金額はというと、ゲーム台は 350円だから、勝ち負けがトントンでも 月あたり、3万5千円 から 10万円ぐらいのゲーム代を使っていることになる。
300ゲームやる月があるかわり、まったく行かない月もあるので、 100ゲーム/月 が平均だとしよう。年間で考えると、42万。900時間。

麻雀をしない人なら、これほどの時間とお金を費す... それはなぜなのか。 という疑問が出て来るに違いない。そう、 それが このページで説明しようとするテーマ ということになる。 ... また、これほどの時間とお金が必要なことを人に勧めるわけにはいかない。 この文章がなにかの意義があるとすれば、疑似体験という手法で説明せざるを 得ないかも知れない。それは、なかなか難しそうで 訓練としてトライはするが 失敗する可能性がある。

あと、勝っているのか負けているのか?ということに興味を持たれるかも。 実際は、ゲーム代の占める割合が多く。勝っていてもゲーム代を払って 残る ってことはあまりない。そして、負けているときは、ゲーム代を倍ほど払う ような感じ。平均すると 勝ってはいるのだが、ゲーム代を基準に考えると、 ゲーム代が7割になったのと同じなのか、全額払うのかという違いにしかならない。 したがって、これだけ麻雀をやるかどうかということに比べて、 些細なことでしかない。ここでは結果としての勝ち負けということは、 話題に上がらない予定。

つぎにそれほどの時間を仕事をしながらどうやって.. 捻出するのか。 それも疑問のはず。1200ゲームを年にやる。やるチャンスはほぼ週末のみ。 それも毎週ではなく、平均すると隔週だとする。26 回いって 1200 ゲームする のであるとすれば、一回 46 ゲーム。時間にして 34 時間連続 ...
本当か? と思われるかも知れない。本当である。だいたいは、30時間前後の ことが多いけれども、50時間ということも時々ある。そして 最も長かったのは たぶん 100時間ぐらい。

麻雀打ちなら、同じような話は ときどき耳にするかも知れない。 でも、普通の麻雀打ちは、ここまで打たない。 麻雀打ちだからといって、理解できるとは限らないというのは、これが理由。

なぜそういうことをするのか。なぜそういうことができるのか。 そして... そういうことをした後はどうなるのか...

こういうことは興味がある話題かも知れない。私にとって明らかなものもあれば、 自分を堀り下げる作業をしなければ、そもそも 明らかにならないものもある。
そして説明できるかどうかについては、自信がない。--- それでもやってみようと いうのが、私にとってのテーマということになる。

ここで、30時間も集中力が継続できるのか? というのは疑問に思われるかも しれない。はっきり回答しておくと、30時間では何の問題もない。 50時間は厳しいが、集中力が継続できたことはある。 100時間クラス というのは 経験が 1 回しかない。

おおむね、これ以上集中力が持続できないという限界は、50時間あたりで来る。 体調によってはもっと早く来る。 ただし、集中力が持続できない状態からずっと打って行くと 別の限界に到達する。そういうことを2 回ほど経験した。 それはどういうものかというのは、テーマとして出してみたい。 あらかじめ 言っておくと "眠い" というものではない。

実証データ...

フリー雀荘では、客が多く来てくれるように サービスのためのカードを 発行するところが、多い。私が行く雀荘では、来店毎に 日付をいれてハンコを 押してもらえる。トップをとってもハンコを押してもらえる。100 個たまれば、 5000円なり1万円なりバックしてもらえるシステム。
私がもっているカードは、No 16 だ。すくなくとも 1500勝 していることになる。 勝率が、平均だとすると、6000 ゲーム。3割の勝率 だとしたら 4500ゲーム。
いつからスタンプを押し出したか覚えていないのだが... 4年前ぐらいじゃなかった かと思う。
また、このカードには、11/7 の日付が入ったところから、15 個のハンコが押して ある。記憶に残っている最高数は 来店のハンコを除いて 34 個。
つまり、11/7 に行ったときは、15 勝するまでずっとつづけた ということであり、 3割の勝率 だとしたら 45 ハンチャン(ゲーム) 打ったということ。 ( 45 分をかけると、33時間ということになるが、この日はそれほど打っていない。 ...といっても 28 時間ぐらいか。たぶん勝率は、4割程度。そしてこれぐらい勝てば ゲーム代を引いても手もとに 若干のお金が残る。ゲーム代と残ったお金の割合は、 2:1 ぐらい。そして、4割もトップを取るというようなことは時々しかない。 5割にいたっては、年に 1回あるかないか) ハンコ 34 個のときは、とても調子がよく たぶん 5割の勝率。 となると 68 ハンチャン(ゲーム)ぐらいはやったらしい。
68回打ったとして、45 分をかけると、時間は おおむね 51時間。 そして、5割の勝率をキープした ということになるから、 50時間 程度 集中力が持続したという ことは言えると思う。
ちなみにフリー雀荘を知らない人のために説明しておくと、 やめるのは自由なので、3人の相手は、どんどん入れ替わる。 そして、集中力がない状態で勝つことは非常に難しい。特に 5割の勝率というのは、運が良いだけでは不可能で、 運を逃さない -- 冴えた状態である必要がある。 そしてこの状態は、単に集中力が持続している という状態よりは、もっと 上のレベルであると言い切れる.. と思う。

麻雀のイメージ

これほどの時間とお金を費す... それはなぜなのかということを説明するために、 麻雀のどういう部分に魅力を感じているのかを説明するということになるだろう。
これは、なぜ1回にそれほど長くやるかというのとは別の観点で説明できるはず。 なぜかというと、もともと 長くやる わけではなかったから。 まるまる3日やっている人を見て、なぜ そんなにできるのか。そしてやるのか。 不思議に 思った覚えさえある。

私が 麻雀にもっているイメージはどういうものだろうか。羅列すると パターン化、論理の感覚化、偶然の論理化。

エ?どこが関係あるの? と思われるかも知れない。

麻雀をしない人だと、4人でやるゲーム、ルールが覚えきれないほと難しい、 ギャンブルの一種。 ...といったイメージがあるかも知れない。

そしてある程度麻雀をする人なら、運より腕、期待値、徹夜、タバコのけむり...etc
麻雀マンガを良く読んでいる人なら、雀鬼、デジタル思考、オカルト、棒テン即リー ... とかとかいろいろあると思う。

で、私にも そういうイメージはある。ただ、上記の3つのことをいつも念頭において いつも打っているということ。

パターン化については、いくつか方向があって、まずパターンのデジタル化。 すなわち 思考ルーチンのプログラミング。どうやると プログラムで実現できるのか... なんていうこと。
(あとで説明するけど)私がもっているパターンを全部プログラム化 できたとして、私なみの実力になるのかどうか... これについて疑問を持っていて (できるかどうかわからんけど)実際に実験してみたいという 望みをもっている。
そういうことをやるためには、パターン化そのものも、やっていかないといけない。

これは、手段であって目的ではない。けれども、たぶんそういうことを考えて 打つ人は、あまりいないはず。(なぜなら、(どんなひどいものでも) 思考ルーチンのプログラミングをやる人は少ないはずで、こういうレベルまで 考えている人はもっと少数に思えるからだ。)

論理の感覚化 というのはどういうことか。だいたい仕事でもプライベートでも プログラミングをやっているわけで、複雑な論理にどっぷり漬かっているわけだ。 麻雀で、期待値だのなんだの考えてそういうデジタルな思考だけで勝てるのなら、 ここまで魅力を感じなかったはず。論理を追って思考する というレベルでは、 全然ダメでパターン化して対処する。これは、数学の問題を解くパターンを 覚えるという暗記数学みたいなもの。でも、どうも これだけでは 足りない。 予感とかそういうレベルにまで パターン化したものを身につける ことが必要だろうと 思える。 予感というものは、その時は パターンやもとになっている論理そのものは 明らかには引き出せないが、どれかにマッチしそうで、これをするべき/するべきで ない という結論だけが先に出て来る... みたいな。そういうものだと考えている。

パターンの暗記とどうちがうのか... 私の考えであって、間違っているかも知れないが パターンそのものは出なくてよい。結論だけが出てくれば良いというところが違う はず。そして、時間があればパターンが思い出せるはずということだけ信じられれば 良く、そういう場合は行動につなげてしまう。

それが正しかったのかどうか、というのは結果としてわかる場合もあれば、 わからない場合もある。危険予知 の場合は、あぶないと思ったものをわざと 切って確かめる... なんてこともやったりする。それは、振込み に 対する ペナルティよりも確かめることの方が重要だと思った場合だが、 確かめることの方が重要だと思うことは多々ある。

何か予感がしたらそれに従う。 そして確かめ、予感の原因を考える。正しければ強化するという作業は 、 とにかく楽しいのである。

で、そうやっていけば、勝てるのか... というと YES。だと思っている。 そうやっていっても 勝率はたいしたことないではないか.. という意見があれば、 それは反論したい。パターン模索したりするために、わざわざ負ける.. ような こともやっていて、勝ちにいけば、もっと勝率はあがるはずだと思っている。 ただ、勝率をあげるよりは、こういうパターン模索とか、予感の訓練といった ものの方が楽しいのである。

偶然の論理化... これは何だろうか。 さっぱりわからないと思う。

麻雀をはじめてから、 "偶然を相手にしたとしても人には願望を達成する能力がある" ... なんていう 仮説が 頭から離れない。やればやるほどそう思える。
もっと、わからなくなったかと思うが、それはなぜかということをおいておいて、 その疑問を解くことができなければ、麻雀から卒業できそうもない。

解くということは、論理で説明できるようになるということである。 だから、偶然の論理化 というキーワードにしてみた。ひょっとしたら、偶然と 考えていたもの(あるもの)が、偶然ではなく理由があって結果と因果関係が あるということを発見すれば良いだけかも知れない。ただ、 偶然にしては出来すぎというのを 何度も目のあたりにした結果、 人には願望を達成する能力があって、その能力を使っているだけではないのか? なんていう疑問につながってきているわけだ。

出来すぎとなる状況には、なんとなく共通項があって、それは、オーラスとか こうすれば逆転というビジョンがはっきり見えていて、逆転すべき相手が気を 抜いているような状況。こういう状況で、出来すぎとなる現象をよく観察できる。

それ以外だと、長時間私が打って、限界を越えているときも。 上のような状況でなくとも、出来すぎとなる状況をよく目にする。

願望を達成する能力どうしがぶつかっているときはなかなか発現しないが、 そうでない状況なら、よく発現する...みたいな 気さえする。

これを確かめたい、間違っているにしても、なにかのメカニズムを発見できる だろうし、合っていれば... どうしよう。まあ、すくなくとも 自分にとっては 有用だろう。

もちろん、他人が、この仮説の解明につき合ってくれなくとも良いし、 信じなくとも/信じてもよい。問題は、論理をちゃんとマスターしているはずの 私がなぜ そう思うか... なのだ。だいたい 私が XXX だと思う とかいった話は、 論理的な背景があって、具体的に論理を説明できなくとも、論理があるものばかり。 で、これだけは、違うのだ、論理なぞなく 思うわけだ。

"偶然を相手にしたとしても人には願望を達成する能力がある" ということに ついて捕捉しておくと、やるべきことをやらずに達成できるということに ついて言っているわけではない。かと言って、そう考えて行動すれば、 そうでない場合に比べてより多くのことをやるはずだから、 願望を達成できる可能性がより高い と言っているわけでもない。(それは当然で あって、説明する必要もないだろう)。そうではなく、偶然に委ねないといけない ケースでも、そう考えて行動すれば、うまくいく確率が高いようだ。ということを 言っているわけである。

この考えは、正しいかどうかによらず、信じることは有用である。で、私は 信じて行動はしている。

では、真偽などどうでもよいではないか... そうではない、この仮説は、 演繹では 偽 で、感性では真 。私はこれ以外のものでも感性を信じて 行動しているが、感性といっても 論理で裏付けされているから 信じられるので あって、裏付けされていないものを信じるというのは私の行動規範にはない。 だから、真偽が重要で確かめたいと思うわけだ。偽であるなら、確かめることは 可能だろう、で、信じているのは 真なのだ。確かめられるという気がしないが、 それだからこそ 麻雀は卒業できないだろうと思うわけだ。

出来すぎとなった状況

出来すぎとなった状況、というのがよくわからないかも。うーん。どう説明 できるかなぁ。"そんなの偶然でしょ" と思うには頻繁に起きすぎる。そして、 "それを狙ったからでしょ" と 思うには、あまりに多くを偶然に委ねている みたいな感じなのだが。

1つ例を書いてみる。麻雀打ちなら、どういうことを言っているかわかる程度 の表現でしか書けないが。

麻雀打たない人なら、そんなことないだろう。-- なにか見落としている点があるに 違いないと考えるだろう。麻雀打ちならどうだろう。-- 納得してしまう人はかなり いるかも知れない。だいたい、流れとかいう 非論理的な概念を受け入れている のは どちらかというと多数派のように思える。 そういう人にとって上の例は、流れがあったねぐらいで、 片付けてしまえる話なのだ。

コンピュータプレイヤーは意志を込めない

さて、とにかく なんらかの方法で、上記のことを確かめたい。 私は netmaj というプログラムの作者であり、それを作ったのは 上記の話と関連がある。強い思考アルゴリズムを作ることができれば、上の話は 気のせいであり、間違っているといえる。なぜなら、 コンピュータプレイヤーは意志を込めないから。

でも、いまのコンピュータプレイヤー(以下 COM) は弱すぎる。期待値どおりに動く ものを作り上げないといけないが、そういうレベルにまったく到達していない。

私が、COM 3人と対戦すると、5-6割 程度の 勝ち率になってしまう。あまりにも弱く もっと強化しないといけない。

ただ、netmaj により、ちょっと面白い現象を発見できた。 とりあえず、私が一人で打って 6割勝つとしよう。そうした場合、 COM は、13% 程度の勝率はあるわけだ。
この勝率は一定かといえばそうではない。人間2人 対 COM 2人 の場合、勝率は もっと下がる。人間3人 対 COM 1人 の場合、勝率は 1% までに下がるようである。
これはどういうことか... 上の話と関連ありと結論づけてしまうには、結論を 急ぎすぎる。ただ、これはどういうことかというのを調べ、人の人数によらず 同じ勝率をキープできるようになれば、上の話は気のせいであるという結論を 導き出せるかも知れない。


(最終更新 Thu Mar 30 18:58:53 2006)